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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [16]




「あんたは変われない」
 その言葉は、いったい誰に向かって言っているのか?
 一方、真摯な眼差しを向けてくる相手に、瑠駆真は唇を噛んだ。
 あの時と同じだ。自分を罵ったあの時の、まだ明るくて笑顔の美しかった頃の美鶴と同じだ。
 唐渓で再会した卑屈な美鶴。なぜそのような人間になってしまったのかと哀しく思い、だが、それなら自分が元に戻してみせようと心に決めた。
 美鶴の為なら、変えてみせる。
 美鶴の為なら、変わってみせる。
 だがやはり、美鶴はやっぱり、根は昔のままなのだ。昔のままの、真っ直ぐで、純粋で、美しいままの美鶴なのだ。
 美鶴は美しい。ならば自分は?
 肩を押し付ける両手が、微かに震える。
 美鶴は、いつでも、素直で純粋な自分を取り戻す事ができる。美鶴にはできるんだ。自分にはできなくても。
 きっと立ち直ってしまう。自分を置いて―――
「嫌だ」
 喘ぐように呟く。
 僕を置いて、一人で行ってしまうのは嫌だ。美鶴を変えるのは自分だ。美鶴を救うのは自分だ。美鶴を幸せにするのは自分でなくてはならない。
 美鶴がいなくては、自分は変われない。だから、美鶴が一人で、僕を置いて一人で行ってしまうのは駄目なんだ。
「美鶴」
 左手に体重を移動し、右手を頬に添える。慌てて美鶴がその手首を掴むが、瑠駆真は振り払おうともしない。
「美鶴、僕は」
 僕の傍にいて。僕を変えて。僕を頼って。
「僕はなんとしても、君をラテフィルへ連れて行く」
 僕の傍で幸せになって。
「君を連れて行く」
 瑠駆真の影が美鶴を覆う。
 だが、二人の唇が重なる事はなかった。瑠駆真のポケットが小刻みに震えたのだ。
「携帯」
 押さえつけられながら、苦し紛れに呟く美鶴。チラリと視線をポケットへ投げ、だが力を解こうとはしない瑠駆真。
 相手など、だいたい想像できる。
 無視を決めこみ、再び視線を美鶴へ戻そうとした途端―――
「っ!」
 左脛に異常な激痛を受け、思わず身体を跳ね上がらせる瑠駆真。隙を見逃さず美鶴が瑠駆真を突き飛ばす。
 不意を突かれ、床に転がりながらも美鶴を逃すまいと視線を巡らす。離れようとする美鶴に片手を伸ばす。
「いやっ」
 伸ばされた手を払い除け、さらには手近にあった枕を思いっきり投げつけた。
「みつっ!」
 視界を遮られ、ようやく枕を押し退けた時には、すでに美鶴は寝室の出口へ。
「美鶴っ!」
 慌てて追いかけようとするそのポケットから、場に不似合いな音声案内。
「ただいま、電話に出る事ができません。御用の方は―――」
 構わず飛び上がり、美鶴を追う。後ろ姿はすでに玄関の扉の向こう。追いかけて瑠駆真も玄関へ。だが―――
「美鶴っ!」
 振り返りもせずエレベーターへ飛び込む。扉の閉まる音。
 無理だ、間に合わないっ!
 それでも追い掛けるべきだと乗り出した身の、その耳に響く流暢な日本語。
「ルクマ? アタシよ。メリエム」
「っ!」
 ポケットの中から、美しい声。
「来月には日本へ行けるわ。日にちが決まったら連絡するわね」
 携帯を取り出し、睨みつける。彼方から、可愛らしい機械音。エレベーターが目的の階に到達したのだ。たぶん、一階。
 瑠駆真は、片手で玄関のドアノブを握り締め、もう片手に携帯を握り締めたまま瞳をギュッと閉じた。
「くっ!」
 そのまま強く歯を噛み締め、一回ドンッとドアを激しく叩く。そうして両膝を地面に付き、瑠駆真はそのままガックリと蹲ってしまった。





 雨はあがっていた。どんよりとしたままの雲の下、美鶴は夢中で走り続けた。
 行く先などない。
 ただ、逃げなければとその思いだけで必死に駆けた。
 前にもこんな事があった。あの時は雨が降っていた。まだボロアパートに住んでいた頃の話だ。そして、美鶴を押し付けたのは瑠駆真ではなく、聡であった。
 なんで二人してこんな事を。
 腹が立つというより、ただ頭が混乱した。
 聡だけでなく、瑠駆真まで。
 だいたい、国王って何? 皇族って何? 唐渓を辞める? ラテフィルへ行く?
 幸せにするって、どういう事よっ!
 勢い良く走る美鶴のズボンのポケットから、携帯が跳ねた。慌てて立ち止まると、一気に疲れが全身を襲った。激しい疲労が美鶴を包む。いつの間にか荒れていた呼吸のまま、携帯を拾う。そのまま地面にしゃがみ込んだ。
 辺りに人影はない。雨が止み、もうすぐ夕飯時だ。買い物に出かける主婦や、帰宅してくる人の往来もあるだろう。
 こんなところで蹲っていたら、絶対不審に思われる。
 わかってはいるが、ではどこへ行けば?
 焦る美鶴の耳に、微睡(まどろ)みのような声が響く。

「君を幸せにしてあげる」

 幸せって、何?
 握る携帯。降り乱れた髪から、香り立つ甘い優しさ。
 美鶴は携帯のボタンを押した。早鐘のような鼓動。
 きっと全速力で走ったせいだ。
 言い聞かせ、震える指を無理矢理動かす。もう、止められない。
 目を瞑りながらコール音を聞く。果たして――――
「もしもし?」
 留守電じゃないっ
「霞流さん」
 名を呼んだ途端、美鶴は目の奥に痛みを感じた。
「美鶴さん?」
 溢れそうになる想いを必死に押さえつけ、美鶴は掠れる声を絞り出した。
「会いたいんです。今すぐに会いたいんです」
 美鶴はとにかくそれだけを早口で捲くし立てていた。







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